大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所第二小法廷 昭和51年(オ)1311号 判決 1977年5月02日

上告人(原告)

宇田川富夫

被上告人(被告)

富士火災海上保険株式会社

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人小堀樹、同村田裕、同石山治義の上告理由について

原審の適法に確定したところによれば、上告人の兄繁太郎は同人の営業用に普通乗用自動車(以下「本件自動車」という。)を所有していたところ、上告人は、昭和四六年一二月末、友人の星吉泰と正月休みを利用して本件自動車で四国観光旅行をすることを計画し、繁太郎から約一週間本件自動車を使用することの許諾を得たうえ、同月三一日、東京を出発し、星と適宜運転を交代しながら四国に到着し、途中女友達二人を同乗させてからは、上告人、星及び他一名が交代で運転して観光旅行を続けているうち、翌年一月三日午前一一時ころ、愛媛県南宇和郡西海町の海中公園を見物するために、星が本件自動車を運転して同町弓立二七〇番地先路上を進行中、カーブ地点で運転操作を誤り、本件自動車を道路下に転落させ、同乗していた上告人は、右事故のため第一〇胸椎骨折による背髄損傷等の傷害を被つた、というのである。右事実関係のもとにおいては、繁太郎の運行支配が間接的、潜在的、抽象的であるのに対し、上告人の運行支配と運行利益の享受がはるかに直接的、顕在的、具体的であるとし、上告人は、繁太郎に対し、自動車損害賠償保障法三条本文にいう「他人」であることを主張することが許されず、したがつて同法条に基づく損害賠償責任を問うことができないとした原審の判断は、正当として是認することができる(最高裁昭和四九年(オ)第一〇三五号同五〇年一一月四日第三小法廷判決・民集二九巻一〇号一五〇一頁参照)。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判官 栗本一夫 岡原昌男 大塚喜一郎 吉田豊 本林讓)

上告理由

上告代理人小堀樹、同村田裕、同石山治義の上告理由

第一 原判決は自動車損害賠償保障法第三条の解釈を誤り、判決に影響を及ぼすこと明らかな法令違背がある。

一 原判決は、『自賠法三条本文の「他人」とは運行供用者及び当該自動車の運転者・運転補助者を除くそれ以外の者をいい、運行供用者は自賠法による保護から除外されるものと解されるところ、』『対外的責任主体としての「運行供用者」と自賠法による保護の除外事由として機能する「運行供用者」とは必ずしも同一に解さなければならないものではなく、事故により被害を受けた者が共同運行供用者の一人である場合には、対外的責任主体となりうべき運行供用者であるが故に常に右「他人」に該当しないものとはいえず、その者の当該具体的運行に対する支配の程度態様のいかんによつては他の共同運行供用者との関係においては右「他人」として保護されてしかるべき場合もある』として、訴外宇田川繁太郎(以下繁太郎という)と上告人を共同運行供用者に該当すると認定しながら、本件においては、『事故当時の具体的運行に対する繁太郎による運行支配が間接的、潜在的、抽象的であるのに対し、上告人による運行支配、まして右運行による運行利益の享受は、運行の全般に亘つてはるかに直接的、顕在的、具体的であつたというべきであるから、かかる場合には、上告人は繁太郎に対し自賠法三条本文の「他人」であることを主張することは許されないと解すべきである。』として控訴を棄却した。

しかしながら、自賠法三条本文から原判決の如き解釈は論理必然的に導き出されるものではなく、むしろ同法の立法趣旨、及び同条の文言からすれば、本件事故により被害を蒙つた上告人は常に他の運行供用者に対し同条の「他人」を主張しうるものであつて、原判決の前記理由は同条の解釈を誤つたものと言うべきである。

二 自賠法は、その第一条で明記しているとおり、今日の社会的必要に基づく自動車運送の著しい発達に伴い多発する交通事故の被害者救済に対処する目的で制定された。

従つて、自賠法三条は被害者保護の見地から運行供用者概念を規定し、原則として運行供用者の賠償責任を免れさせないことを目的として被害者救済を指向している。同条の解釈にあたつては、同法の右の如き立法趣旨に基づき、被害者の範囲を制約するようなことのないよう、現実の社会状況に合致する具体的妥当性と、衡平の原則に裏付けられた法的安定性とを満たすことに留意しなければならないことは言うまでもない。

三(1) 原判決は、自賠法三条本文の「他人」は前記のとおり「運行供用者、運転者、運転補助者を除くそれ以外の者」を言うと解し、その解釈を本件の如く数人の運行供用者が考えられる場合にまで適用している。そして、原判決は自賠法三条本文に対する右のような解釈に則し、上告人と繁太郎を共同運行供用者と認定したうえで、上告人の事故発生時における具体的運行への関与の程度から考え、賠償義務者としての責任の有無を問われている繁太郎に対する関係で「他人性」を主張することが許されるか否かを悉無律的に判断している。

即ち、原判決の趣旨は、自賠法三条の「運行供用者」を抽象的な概念で把握して、それと「他人」を排他的な関係に理解し、前者に該当する者はたとえ数人存在していようとも原則として「他人」を主張することはできないが、例外的に具体的運行の関与の度合により他の運行供用者に対し自賠法三条の「他人」を主張しうる場合があると言うにある。

(2) 自賠法三条本文を文字通り解釈すれば、「運行供用者」と「他人」とは対立する概念として使用され、「運行供用者」は「他人」に該当しないことになる。従つて、被害者から請求を受ける運行供用者が一人しか考えられない場合には、同条の「他人」と「運行供用者」の関係について原判決のように解しても結論的に何ら差異はない。

しかしながら、数人の運行供用者が考えられる場合についてまで同様に解しうるかは甚だ疑問である。

何故なら、右のように解するときは、被害者救済のために運行供用者の範囲を拡げることは、取りも直さず被害を蒙つた請求権者の範囲を狭めるという矛盾を来たし、同法の立法趣旨に反する結果となるからである。しかも、同条は運行供用者が一人の場合を想定しており、必ずしも数人の運行供用者が存在する場合をも含めて規定されたとは思われず、又同二条において同法に使用される用語の定義がなされていることからすれば、同三条本文の内容に原判決が述べるような「他人」の定義づけを求めることは自賠法の施行当初から全く予想されていないと言うべきだからである。

(3) 結局、原判決は自賠法三条の「運行供用者」について損害賠償の請求を受けているか否かに関係なく、抽象的な概念で解したところに同条の解釈を誤つた違法がある。

四(1) 自賠法三条にいう「運行供用者」とは、その運行により生命または身体を害された者との相対関係にあり、その被害の賠償の責を負うか否かが問題となつている当該運行供用者のことを言うのであつて、具体的に損害賠償請求を受けていない運行供用者も含めた運行供用者グループ全体を指すのではない。そして、同条の「他人」とは損害賠償の責に任ずる当該運行供用者以外の者で被害を受け、その損害の賠償を請求できる地位にある者を総称しているにすぎず、それらの者の運行支配、運行利益の有無、程度いかんによつて、その地位自体に変化が生じるようなものではないのである。

従つて、同条に基づく損害賠償請求においては、被害者から請求を受けた者が運行供用者としての責任を負うか否かだけを考えればよいのであつて、被請求者の責任の有無を判断するにあたり、請求する者の運行供用者性の有無、程度は何ら問題とならない。

特に、本件のように通行人等の第三者に全く被害を生じていない場合に、原判決の如く抽象的に運行供用者の範囲を云々することが誰に対する関係で必要なのかを考えれば、そのような判断が全く意味のないものであることは容易に理解しうるところである。

(2) 自賠法三条の運行供用者を具体的に責任の有無を問われている当該運行供用者と解することは決して同条の文言に反しないばかりか、原判決の如く解さなければならない論理必然性も存せず、かえつて右のように解してこそ同法の立法趣旨にも合致し、具体的妥当性と法的安定性を実現することが可能になると言わざるを得ない。

(3) 従つて、本件事故の被害者である上告人は、自賠法三条の「他人」として運行供用者繁太郎に損害賠償の請求ができるのであり、同人は上告人の運行に関与した程度に応じ損害額が斟酌されることがあるのは別として、損害賠償の責任を免れないものである。

五 しかるに、原判決は前記のとおり、繁太郎を運行供用者と認定しておりながら、上告人から繁太郎に対する「他人」の主張は許されないとしたものであつて、自賠法三条の解釈適用を誤つており、その違法は判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。

第二 仮りに、上告人と繁太郎がともに自賠法三条の運行供用者に該当し、特段の事情が存在する場合は「他人」を主張することが同条の解釈として許されるとしても、特段の事情につき原判決の如く具体的運行に対する両名の関与の程度を比較し被請求運行供用者の責任を悉無律的に判断することは、自賠法三条の解釈、適用を誤つたものと言うべきである。

一 原判決は、前記の如く被害を受けた者が運行供用者に該当しても、運行供用者が数人考えられる場合には、例外的に他の運行供用者に損害賠償の請求ができることを認めるが、その基準を上告人と繁太郎の双方につき具体的運行に対する支配の程度、態様の比較に求めている。そして、本件の場合においては、上告人の運行に対する関与は繁太郎のそれに比べはるかに直接的、顕在的、具体的であるから、上告人は繁太郎に対し「他人」を主張することが許されないとした。

二 原判決は、その判示理由に明らかなとおり、繁太郎を運行供用者と認定しているから、同人は本件事故に対する責任の程度がどの位かは別として、少くとも運行供用者固有の責任として、本件事故の被害につき賠償義務を負う立場にある。とすれば、繁太郎は仮りに通行人等他の被害者からの賠償請求を受けた場合には、上告人との求償関係を考慮に入れても、最終的に同人の責任割合に応じた賠償義務を負うことになるはずである。

三 しかるに、原判決は具体的運行に対する関与の度合が上告人と繁太郎とではいずれがより「直接的・顕在的・具体的」であるかという極めてあいまいな基準によつて上告人からの「他人」の主張の許否、裏返して言えば繁太郎の責任の有無を判断している。

原判決によれば、運行関与の度合が上告人の方が繁太郎より大であれば上告人からの「他人」の主張が許されず、小であれば「他人」の主張が許されることとなるが、繁太郎は前記の如く固有の運行供用者責任を負つているのであるから、右のように相対的判断の結果、責任を負つたり負わなかつたり差を生じることは全く不合理である。ましてや、民法の不法行為責任においては過失相殺によつても免責されないことが判例上確立しているのであるから、この点を比較対照してみても、被害を受けた上告人と運行供用者責任を負う繁太郎の関係について示された原判決の理由は衡平を欠き不合理と言わざるを得ない。

しかも、原判決は直接運転も指示もしていない上告人と繁太郎の運行関与の度合を比較しているのであつて、運転者ないしは運転補助者からみればより間接的な立場にある両名について、右のような比較の結果一方が他方より直接的・顕在的・具体的であつたとしてその結果にどれだけの意味があるか甚だ疑問である。

四 自賠法三条を解釈するにあたつての「特段の事情」とは被害運行供用者自身が当該運行の運転をしていたが、あるいは運転者を補助したりするなどして、事故発生に積極的原因を与えたか否かという点に求めることがより衡平の原則、ならびに社会的妥当性に合致する。

上告人は、原判決も認定しているとおり、事故当日は全く運転も運転に関する指示もせずに運転者の後部座席に同乗していたにすぎず、事故時の運行には何ら関与していなかつたものであり、自賠法三条に基づき繁太郎に対し損害賠償を請求することができるものである。

なお、原判決は、上告人が後部座席に同乗したのは交替運転の一環として偶々そのようになつたにすぎないとしているが、長距離トラツク運転者の交替中の事故について、多数の判例は無免許者飲酒者等に運転を任せたり、助手に無理に運転させたりした場合を除き、通常の交替運転中の事故の場合は、助手席に同乗して被害を受けた運転者からの「他人」の主張を認めている例が多く、本件においても同様に考えられるべきである。

原判決は、自賠法三条の解釈を誤つており、その誤りは判決の結果に影響を及ぼすことが明らかである。

以上いずれの点からも原判決は破棄を免れないものである。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例